空海の魂・・・その一考察

<教育書●◎○○に在籍したての頃のレポートが出て来た。学生として夢中で勉強していた頃の懐かしい物なので、掲載してみたいと思います。>





   <空海の魂・・・その一考察
空海という名を知らない者は居ないであろう。
しかしながらそれは空海という名を知るのみに留まるのが一般的であると思える。
私が、空海に劇的に引き寄せられて行った過程を述べてみよう。

常日頃、正確には幼少の頃より私は、人間の心、詰まり魂というものに対して自問自答し続けて来た。夜空の諸星を見上げては己の中に、空なる風を見出したり、又グラスの中の水が溢れ出るが如く詩を書き溜めつつ、自分なりに消化して来た訳です。
自分が書道を始めたきっかけも基本的には、そういう中での一消化法に値する。
ですから、一人無心に書いている・・・そういう状態が非常に自分にとり大切な訳です。。。と言うより、好ましいと言おうか。
書に限らず、絵を描くとき、詩や短歌などが湧いてきた時、或は読書する時などなど、これら
一人一心に集中している時こそが実に、心が研ぎ澄まされて、
本来の己の中に宇宙が見えてくるものである。
詰まり・・・一言では言い難いが、そういう時こそ
自分にトップリ浸かって周りが見えなくなるというものではなく逆に、己から抜け出して何処からか自分を静観している姿が見えてくるのである。
研ぎ澄まされているからこそ、心としては非常に、空なる状態である訳ですから、
パッと、全く無関係な部分で閃いたり、新しい発想に開眼したり、潜在的な何かを呼び覚ましたりできるのが己が人間として生きていて堪らなく可笑しくもあり、楽しくもある。

いつだったか数年前に、いつもの様に古本屋で購入した、『茶席の禅語』という書物の中に出て来る言葉で、後々に私が・・・
これは空海の魂の根底に位置すると思えたものを これよりあげてみたいと思う。

醒々著』という言葉がある。
無門関の中に出ているのですが、
昔、中国の瑞厳和尚という方が、
毎日自分自身に呼びかけて、
「主人公よ、目を覚ましているか?醒々著や」
「はい、目覚めております」
「人に騙されるのではないぞ」
「はい、わかりました」
という 奇妙な自問自答を繰り返した、という話で・・・
これはどういう事か?と言うと、
人間は一生懸命やっている積りでも、ともすれば本性、本心が眠ってしまい勝ちですから、それが眠らない様常に己を叱咤激励、自問自答しながら
つい眠り込もうとする本性を絶えず呼び覚ましなさい・・・という事なのである。

又、『莫妄想』という言葉・・・
これは妄想する事莫れ、という事。
全ての妄想をパッと断ち切ってしまえという事で、ではどうすればその妄想を断ち切る事が出来るのか?・・・
何でも一生懸命する、その純粋さが大切なのである。
詰まらない事を色々考えるから、
悩みが生じ、対立が生まれる。
しかしながら・・・その根源そのものは?一体何であるのかと、突き詰めて行くと・・・
実は、元々対立する根源など何も無いのだという事に気付く筈である。
詰まり、気持ちの持ちよう、精神の持ち方一つで、ガラリ局面が変わってしまうもので・・・
心を空っぽにして、余計な事を考えなければ対立の根源を断ち切るとか、断ち切らないとか、そういう事はもはや 問題にならないのです。
『莫妄想』の一番の早道は
何事も、その事に徹する事だ。
大切なのは一つの事に徹する事により、最後には・・・
妄想を断ち切るという事さえ忘れてしまう・・・そこ、それなのである。

これはある意味では書道に於いても深く関わりが有ると思える。
妄想を断ち切ろうと思っている間は実は
まだ断ち切れて居ないとも云える訳で、
一体いつ?断ち切ったか?思い出せないが、いつの間にか吹っ切れている・・・
というのが、本当の有り様であると思う。
これぞ当に 空なる心であろう。

それから又、『当機』という言葉がある。
これは・・・その時、そのものずばり間髪を入れない、という意であり、常々・・・
物事の本質を瞬間的にパッと正確に理解する力や、感受性を養って置きなさいという事なのです。これは、先に述べた『醒々著』にも通ずる意であると考える。
当機とは、当にその時、一つの大きなチャンスであり、
日頃、注意が散漫でボンヤリした人生を送っていると、日常そこいらに一杯転がっている『機』を生かす事が出来ないで、それを逃してしまい、決して向上は望めないという事であると考える。

これらの言葉が出て来る訳ですが、衝動的に買った古本にしては当に『好機』でした。
この『茶席の禅語』・・・まあ禅語ですからその道の宗教的解釈に基づいたものではありますが、
己なりに分析咀嚼する楽しみを味わえる。
そんな合間にも私は・・・
魂について常に己に問うている身として色々又、別な書物も同時進行しておりますが・・・
『チベット死者の書』という何やらおどろおどろしい本を買った。それは直感的にピンときたからですが。つまり・・・何らかの関連性を持っていると。
それで読み進む内に・・・
以前ざっと講義を受けた<風信帖の空海>に見事にピタリッと直結したのです。
電流が走り抜けました。
この魂、これこそ絶対に空海の中に有ると確信。
気も焦らんばかりに本腰を入れて空海の書物を探し求めた。
どうした事か・・・この時になって初めて自分の中に、『空海』が急浮上したのでした。

そして新しく手に入れた『空海の風景』・・・貪り読んだ。
まあ、難しい、面倒くさい部分も多々あり、又、憶え切れない歴史的随所は申し訳御座いませんがざっと流し、私の最も興味を持つ、空海の哲学的素養部分に、改めて共鳴し、感動するものでした。

空海は有る意味に於いて既に私の内に存在して来ていたという感動。
そして、書をやっていく上で共通するところがあると思えますから、以下空海の思想の一部を連珠いたします。
私は別に仏教徒でも無神論者でも何教徒でもありませんが、
空海の、書道の基本となるその魂について触れる意味で、多少、宗教色が濃いかもしれませんがそれはそれとしてです。

空海曰く・・・
儒教は世俗の作法に過ぎない。
中国文明は、宇宙の真実や生命の神秘についてはまるで痴呆であり、無関心である。
事実群の累積が如何に綿密で膨大であろうとも、もともと
人生に於ける事実など、水面に浮かぶ泡よりもはかなく無意味であると。

『戯曲=三教指帰』 の中に、空海自身と言える 仮名包児が出て来て 曰く・・・
私が、誰の子であるという事に何の意味があるのだろう?・・・人間というものは元々、三界に家が無いものだ。有ると思っているのは錯覚である。人間の住む、六趣の世界をご存知であるか?  地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界の事だが・・・人間はこの世界をぐるぐると輪廻して、定まるところが無い。それゆえ・・・私は時に天堂を国とし、ある時は地獄を家とする。 ある時は・・・魔王を師匠とし、ある時は、鼻持ちならぬ異端の修行者を友とする。鳥もまた、私の父であり、獣もまた、私の妻であり、この事は、あなた方にとっても変わらない。儒者よ、あなたは私より年長であるからと言って、長幼の序をやかましく言い、その躾を核にして、浅薄な思想を作り上げているが、そんな馬鹿なものは実際には存在しないのだ。時間には初めというものが無く、あなたも私も無始の時から生まれ変わり死に変わり・・・常無く転変してきたものである。 人は無論の事、時間も万有も、円の如きもので、六道を凛々と音を立てて巡り巡っている。・・・・・・・であるがゆえに、さればお判りであろう? 私が何国の、どこの生まれで、親が誰であるか、という事は・・・・・・・・・・・・・決まって居る訳では無い!という事を 』
ここに私の解釈を述べます。
これは・・・・・・・基本的万有観にあって、万有に一点の無駄というものが無く、其処に存在するものは清浄であるという極意なのだと考えます。
万有に一点の無駄が無いという事は実に素晴らしい事ではありませんか。
何事も日々精進せよ、という事であるとともに、又、宇宙的壮大さの基にある博愛思想が伺える・・・と私は斯様にとらまえる

宇宙は万物に限りなく聡明で限りなく労り深いものであると考える空海が、宇宙の原理を、
苛酷な悪魔的なものとして捉えずに、絶対の智慧と、絶対の慈悲で捉えたところに、純粋密教を成立せしめた思想的性格の温かみが溢れている。
空海が、釈迦を否定し、超越せざるを得なかったのも、天性的理念からして、必然であると云えよう。
空海が表現した書の数々には・・・然様に深く宇宙的要素が色濃く思えるのである。
況や、書に於ける魂も正に哲学であると感ずる。
この宇宙からすれば塵にもならぬ一人間の私も・・・ほんの少しでもその真髄に近付けたら幸いだと思う今日この頃である。                        <星雨











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by karkowitch | 2008-11-24 16:00 | 人間賛歌